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2022-11-01

166.人を許せる自分になるために、

    あなたはどんなときに人を「許せない」と思いますか。「恋人や配偶者が浮気をしていた」「上司からパワハラやセクハラを受けた」「信頼していた友人から裏切られた」こんな経験をしたことがある、あるいは身近な人が経験しているという方は、多いのではないでしょうか。ここで生じる「許せない」感情は、自分や身近な人が何らかの被害を受けたことに対する憤りであり、強い怒りが湧くのは当然です。では、次のような場合はどうでしょうか。「清純な優等生キャラで売れていた女性タレントが不倫をしていた」「飲食店のアルバイトが悪ふざけの動画をSNSに投稿した」「大手企業がCMで差別的な表現をした」もちろん、不倫は法律上してはいけないことであり、店の営業妨害となるような動画の投稿は刑事罰に繋がることもあります。また、CMなどで特定の人たちを差別するような表現を用いることも問題です。
しかし、自分や自分の身近な人が直接不利益を受けた訳でもなく、当事者と関係がある訳でもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまうというのは、「許せない」が暴走してしまっている状態です。我々は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っています。
人の脳は、裏切り者や、社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできている。他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンを放出される。この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなり、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになる。このような状態を、私は正義におぼれてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼んでいる。この認知構造は、依存症とほとんど同じ構造をしている。有名人の不倫スキャンダルが報じられるたびに、「そんなことをするなんて許せない」と叩きまくり、不適切な動画が投稿されると、対象者が一般人であっても、本人やその家族の個人情報までネット上にさらしてしまう、企業広告が気に入らないと、その商品とは関係ない所まで粗探しをして、あげつらうことなど。「間違ったことが許せない」「間違っている人を、徹底的に罰しなければいけない」「私は正しく、相手が間違っているのだから、どんなに酷い言葉をぶつけてもかまわない」etc。このような思考パターンがひとたび生じて止められなくなる状態は、恐ろしいことだ。本来備わっているはずの、冷静さ、自制心、思いやり、共感性などは消し飛んでしまい、普段のその人からは考えられないような、攻撃的な人格に変化してしまう。特に対象が、例えば不倫スキャンダルのような、
わかりやすい「失態」をさらしている場合、そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配が無い状況などが重なると、正義を振りかざす格好の機会となる。
「正義中毒」の状態となると、自分と異なるものすべて悪と考えてしまう。自分とは異なる考えを持つ人、理解できない言動をする人に「バカなやつ」というレッテルを貼り、どう攻撃をするか、相手に最大級のダメージを与えるためには、どんな言葉をぶつければよいか、ばかりに腐心するようになる。ある状況において、どちらの言い分が正しいのかはさておき、双方が互いを正義と確信して攻撃を始めたら、解決の糸口を見つけることは非常に困難である。それどころか、参加している双方が、お互いを攻撃し合う状況にのめり込んでいくこと自体を、イベントとして積極的に楽しんでいて、そもそも解決しようと言う気持ちはないとすらみえる。それはまるで、どう上手に、効率的に相手をけなすかの技術を競ういわば大喜利大会のようでもある。これはまさに正義中毒の重篤な状態だといえる。問題を解決しよう、既存の知識と経験だけに頼らず新しい知見を得よう、難しい状況を抜け出して新たな答えを見出そうとするよりも、その場で自らの正義に酔い、相手を一方的にけなすことに満足感を覚えているだけである。
一方で、自らの正義を主張する快楽を知りながらも、同時に、相手を罵ってしまう自分、相手を許せない自分を許せないと感じることがある。さんざん相手をなじっておきながら、後で後悔したり、自己嫌悪に陥る様な感覚である。
人は人と関わらずには生きていけない以上、自分と考えの異なる人を「許せない」「理解できない」「バカなやつだ」と切り捨てたり、憎しみの感情で捉えたりするのではなく、「なぜ私は、私の脳は、許せないと思ってしまうのか」を知ることこそが、自分の人生にとって、ひいては社会全体にとっても、大きなプラスを生むことになるはずである。
正義中毒は、どこの国のどんな人もなり得るものである。しかし、どんな人を逸脱者とするかという基準は、国や地域により大きく異なる。シンプルに表現すれば、日本では「皆に合わせられないこと」「皆と違う言動をすること」が、愚かと考えられがちである。一方、例えばフランスでは、「皆と同じこと」や「自分の意見を言わないこと」が愚かと考えられやすい。つまらない人と思われると言い換えてもよい。ただし、これは日本が悪くて、フランスが良いと言う意味ではない。国により何が基準となるか、それが異なるということは、結局、「賢明な選択」については、環境により変わるということである。
最良の方法は、どちら側にもスイッチできる柔軟な考え方を持ち、うまく両者の「良いとこ取り」をしていくことであるが、なかなかそこまでのスキルを身につけるのは大変なことかもしれない。
-中野信子「人はなぜ他人を許せないのか?」より引用-

2022年11月01日
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