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2025-09-02

200.大人のASD(自閉症スペクトラム症)について、

障害のあまり目立たないASD児は児童期に気づかれない。だが、複雑な人間関係が必要となる青年期や、成人して就労するようになると、そのASD特性ゆえに、様々な問題や困難、症状が現れやすい。これが俗に言う「大人の発達障害」と呼ばれるものである。大人の発達障害を疑って受診する人は、おおむね以下の2パターンに分けられる。
第1は自ら疑って受診するパターン。
第2は周囲からの指摘により、渋々受診するパターンである。
 第1の自ら疑って受診する例では、児童期からの困り感や辛い思いをしてきている事が多く、イジメを受けている人が多い。筆者はイジメ体験については積極的に尋ねるようにしている。すると、かなり酷いイジメに遭っている人がいる。イジメ体験について語ってもらうのは、これまでの労をねぎらう支持的精神療法的な意味もあるが、イジメられる状況などを詳しく聞くことで、本人がどのように周囲とずれていたのか、イジメル側がどのように思っていたのかなど、当時の本人の状況と周囲との関係などが推察できる利点があるからだ。その上で、本人にとって、自分のどのような点が発達障害やASDの症状と一致すると考えているのかを教えてもらう。すると、「みんなの笑いについて行けない」「みんながする行動の理由がよく分からない」「みんなと同じ事が自分だけできなかった」または、「自分だけとても時間がかかった」などの体験を話してくれる。周囲の人とどことなく違うことをなんとなく感じるようになった人も、その自分らしさを表に出すとバカにされたりイジメられそうなので、それを隠すためのカモフラージュを必死にしてきた人も多い。 
 これらの話は昔のことであるのだが、鮮明に覚えている事が多く、それ自体がASD的な特徴でもある。親が同伴の受診であれば、親からも生育歴を聴取したり、あるいはチェックリストを渡して、遠方の親に記入をお願いしたりなど、客観的な情報をできるだけ多く得た上で、診断閾値を越えると判断できる場合には、ASDと診断して本人に告知する。
 診断を告知する場合に大切なことは、実感の伴う診断にすることである。ASDであると説明した上で、本人が語った児童期からの様々な体験を、ASD特徴から1つずつ紐でつなぐような作業を行う。そうすると、自分のつらい体験の山が、ASDという診断により、1つずつ説明されていく。その上で、「これまで、つらい思いをされたと思いますが、それはあなたが悪かったからではありません。そういう特性があることをあなたは知らなかったのだから、あなたは悪くありません。そしてその特性が目立たなかったので、親が悪かったわけでもありません。学校の先生も普通の子だと思って見ていたので、イジメから守るなどの十分な配慮ができなかったのだと思います」等と説明する。診断をもとにして、過去の謎解きをしていくことで、「謎が解けました」といって涙を流す人もいる。
 この作業は、本人の気づきや病感を正しい病識に繋げていく作業であると言えるので、丁寧に行う必要がある。というのも、ASDの人は「幾つかの情報を集めて1つの概念にするという概念化」が大変に苦手である。例えば、ASDの人は、「疲れを感じたら適当なところで休む」ということができない人が多い。何かを始めると過集中になり、疲れのサインに鈍感である。限界を超えたところで心身が動かなくなるようなことが起きやすい。この時、体が重く感じるようになり、力が入りにくくなり、目の焦点が少し合いづらくなる。これらの個々の症状・事象は感じることができても、それをまとめて「疲れているのだ」という概念にして自己理解することが苦手なのだ。であるから、作業所などで「疲れたら早めにいってくださいね」などの指導は不十分である。事前に本人と疲れの兆候をよく話し合って、どこにどんな兆候が出やすいのかなどを共有することが必要である。それができたときに、「そろそろ疲れが出てきましたか?」と尋ねたり、本人が「疲れてきたようです」と疲れに気づく事ができるようになる。このように、ASDの治療では、断片化した体験を話してもらい、それを概念にまとめるという作業を繰り返すことが、精神療法として求められる。そしてそれが適切な病識へと繋がっていく。
 第2のケースでは、自らASDを疑って受診するような、過去の体験とのつながりが比較的得やすいケースと異なり、周囲からの指摘により、自らの気づきのないまま受診する例が多い。本人が受診に反発しながら来院する例もしばしば認められる。当然ながら、そのような例では、本人も大変であるが、対応する側も大変である。受診を勧めた周囲の人としては、本人を何とか説得して受診にこぎつけたのであるから、「受診して診断さえ下れば、本人の自覚が得られて、今後は上手くいくに違いない」という幻想を持っている事が多い。だが、このような形の受診は、スムースな経過にはなりにくい。「自分は障害者ではない」という最初から対決モードの患者もいるが、一見従順なようで診断後に反発や抑うつなどの副作用が現れる例も少なくない。自らの気づきがなさそうな場合は、生育歴の中でなにか困難や辛さを感じてこなかったのか等の話を丹念に尋ねていくという、原点に戻った対応が必要であり重要である。
 うつ病などの一般的な精神疾患においては、気づきや病感は乏しいこともあるが、一般的には「発症-気づきや病感-受診-診断-説明や心理教育ー正しい病識ー治療」という順序になる。しかし発達障害、特に典型的ASDの場合では、「親や周囲の人の気づき-受診-診断-療育-徐々に告知-知識としての病識-支援下での成長の中で実感を伴う病識」という順序をたどるのが典型的であろう。しかし、大人のASDでは、「本人の生きづらさや気づき-受診-診断-納得や疑義-時には紆余曲折を経ての病識」という順番が望ましい。だが、これが無理矢理受診の場合には、「周囲の気づき-指摘-渋々受診-診断-反発や混乱」という経過に陥りやすく、適切な病識どころか、対応に困る経過になることも少なくない。
 病識は重要だが、病識を急ぐと予後が悪くなりかねないのがASDの特徴である。
筆者の経験でも、ASDの青年に対して、本人が困りごとを話してくるたびに、ASD文脈で説明することを繰り返していたところ、本人がどんどんと被害的となり、「先生と話すたびに、自分は性格が悪いと責められているように感じる」といわれた経験がある。
 井上(2020)は身体科病棟における大人の発達障害と思われる人へのアプローチとして「対応に困る入院患者さんへの安易なレッテル張りは禁物で、”発達障害”の診断をつける・つけようとすることは、絶対にするべきではない」「診断をつけることは、言わば”パンドラの箱を開く”事になるかもしれない」「正確な診断よりも適切な対応を行う事の方が大切」と述べており、リエゾン領域での臨床経験の知恵として、筆者も賛同する。
 青木(2012)は、うつ病患者に「私も気持ちが落ち込むことがある」と話しても共感が得られにくいことや、赤色と青色は連続しているが異なる色であることなどを例に挙げて、発達障害は定型発達と連続しているが異質で有り、自文化と対等の異文化として理解し尊重する事を求めている。病識が異文化理解の文脈で機能することを望みたい。
 -村上伸治著「発達障害も愛着障害もこじらせない」より引用-

2025年09月02日
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