196.ハームリダクションについて、
「やめさせようとしないと止める患者が増える」という不思議について話します。
違法薬物の依存症患者に断薬を強制せず、使用により生じる身体的・社会的な悪影響を減らす支援を行う欧州発の取り組みを、ハームリダクションという。埼玉県立精神医療センター、成瀬暢也Drは、この方法により「やめさせようとしない依存症治療」で大きな成果を上げている。海外のハームリダクションプログラムでは、薬物の回し打ちによる感染症の蔓延を防ぐため、使用済みの注射器を新しい注射器に交換してあげたり、経口摂取が可能な別の違法薬物への変更を手助けしたりする対策も実施されている。このため日本では、「違法薬物への変更に手を貸すなんてとんでもない愚策だ」という批判が根強くある。しかし、ハームリダクションの有効性は科学的に実証されており、注射器交換プログラムを導入している国は、2016年時点で90カ国に達している。(日本では未導入)
では、日本が続けてきた厳罰主義の効果はあったのか?覚醒剤などの薬物依存症(使用障害)の治療現場では、「絶対に止めさせようとする治療」が頑固に行われてきた。「法の番人」と化した医療者が、「大バカ者」な患者を説教して、「再使用したら通報する」などの脅し文句で改心を迫る。その結果、覚醒剤依存症の外来継続率(初診から3ヶ月)は、専門医療機関でも30%台に留まり、大半が通院を止めてしまうので、成果を上げられない現実がある。ところが、成瀬Drの依存症専門外来「ようこそ外来」(ハームリダクション外来)では、覚醒剤依存症患者の外来継続率(3ヶ月)は80%以上と突出して高くなっている。「無理に止めさせようとしない」ことで通院が続き、結果的にやめられるケースが目立っている。ようこそ外来への通院を1年以上続けた薬物依存症患者(危険ドラッグや向精神薬などを含む)の断薬率は、69%(使用が著しく減った顕著な改善例を含めると81%)、3年以上通院を続けた患者の断薬率は72%(同90%)と、再使用が当たり前のこの分野では奇跡のような数字が出ている。成瀬Dr曰く「薬物依存症の患者さんの多くは、アルコール依存症などと同様に、辛くてたまらない人生を何とか生き抜くために薬に依存している。このような人たちに正義を振りかざすと、更に追い込まれて再使用に走る。必要なことは、苦しいこと、辛いこと、困っていることに医療者が向き合う姿勢である。信頼関係を築き、途切れない支援を続けることが大切である。医療者との関係づくりをきっかけに、院内の集団療法やダルクなどの自助グループにも参加して人間関係の中で癒やされる体験を重ねると、薬物にすがらなくても生きていけるようになる」と述べる。
依存症患者と向き合う中で、成瀬Drは「依存している物質や男女を問わず、患者さんは共通点が多い」事に気がついたという。以下の6点である。
1.自己評価が低くて自信を持てない
2.人を信用できない
3.本音を言えない
4.孤独で寂しい
5.見捨てられる不安が強い
6.自分を大切にできない
ようこそ外来の初診では必ず1時間かけて患者の話を詳しく聞く。その途中で、この6つを読み上げると、患者のほぼ全員が、「全部当てはまります」と驚き、女性患者は、「どうして分かるんですか」と泣き出す人が多い。患者たちの生育歴には、虐待、イジメ、絶え間ない親の喧嘩、ネグレクト、などの逆境体験が高頻度に刻み込まれている。その結果、安心感や幸福感を得にくい不安定な心理状態が続き、何かにすがらなくてはいられなくなったのだ。
こうした心理状態の女性は薬物のみならず、DV常習犯のようなダメ男にも引っかかりやすくなる。成瀬Drは、その理由を次のように見ている。
「自己評価がとても低いので、きちんとした男性と居ると落ち着かないのだろう。自分のダメな部分を見透かされると思ってしまう。そしてダメ男に引き寄せられ、お世話して優しい言葉を時々かけてもらい、小さな自己肯定感を得る。しかし、男の暴力や暴言がエスカレートすると、非常に苦しくなる。それでも別れられずにお世話を続けてしまうのは、アディクション(依存症)そのものである。一方のダメ男の背景にも、大抵は逆境体験がある」
このようなカップルは、双方が「お世話したい、されたい依存症」なのかもしれない。
成瀬Dr外来では、患者が覚醒剤や大麻を再使用しても、責めたり通報したりしない。そんなことよりも、正直に明かせる関係づくりを重要視している。医師には守秘義務があり、患者の回復のために正当に行使しているから、責められるいわれはない。医師に信頼を寄せて、定期通院が支えとなっている患者にとっては、逮捕と収監による通院中断こそが最大の悪化要因となる。
同センターでは、松本俊彦Drたちが作ったSMARPP(せりがや覚醒剤依存再発防止プログラム)をベースにした薬物依存症の集団プログラム「LIFE」を開発し、定期的に行っている。
複数の患者が同センタースタッフと共に、薬物依存症の基礎知識、再発の引き金と対処法、自分の考え方を変えるコツ(認知行動療法の基礎)などを学んでいく。ここでもハームリダクションが重視され、参加した患者が再使用を明かすと、他の患者たちから「おめでとう」の声が上がることもある。再使用を素直に明かせるようになったことを祝っているのだ。それが信頼の第一歩だからである。
コンプライアンス至上主義者がこんなやり取りを聞くと、「ふざけるな!刑務所に入って出直せ!」と怒り出しそうであるが、先にも書いたように、治療を中断させてまで刑務所に叩き込むメリットはない。これらのエビデンスを受けて、2016年違法薬物事犯などを対象とした刑の一部執行猶予制度が導入された。刑期の一部を執行猶予期間として出所を早め、医療につなぐのである。
-佐藤光展「心の病気はどう治す?」より引用した-