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2023-08-01

175.思い出せない脳-記憶のミステリー、その1

世の中には「記憶力向上」と銘打った脳トレの本やグッズ、健康食品などが溢れている。これらの中には 科学的エビデンスが示された物もある。例えば計算トレーニングをすることで、やる前とやった後で成績が向上したというような類いのものである。しかしそれは一体どういう種類の記憶力を向上させたのか。計算を繰り返して練習すると、得点が上がっていき、脳の能力がアップしたように感じる。これは「手続き記憶」と呼ばれる記憶を鍛えているだけという可能性がある。手続き記憶とは、言葉で説明ができない、身体の動きが熟練していくときなどの記憶である。ピアノが弾ける、自転車に乗れる、サッカーが上手くなるというようなことで、昔の思い出を覚えていたりする記憶とは、違う脳の働きが関わっている。また、繰り返し練習により、その技術は向上するが、別のことに関する記憶力がアップするわけではない。
ここでは記憶の中でも、「思い出せない脳」の仕組みについて、焦点を当てる。なぜなら、記憶は自在に引き出せて初めて生かすことができる物であるからだ。「覚えられない」もしくは「忘れてしまった」と嘆いている時、脳の中にはその記憶は存在する。覚えたし、忘れてはいないけれど、「思い出せない」だけのことが多い。ふとした瞬間に、ふっと思い出すのが、脳の中から無くなっていない証拠である。例えて言へば、部屋の中が規則性もなく乱雑な状態で、大量の書物や物が溢れている場合に、捜し物をしても見つけられないことが多い。我々が記憶を「忘れた」と感じるときのほとんどは、この散らかった部屋の例と似ている。記憶がなくなったのではなく、探し出せない状態であるのだ。脳のどこかには存在するが、見つけられないので活用できない。
ではなぜ思い出せなくなるのだろうか。すぐに思い出せる記憶と、なかなか思い出せない記憶は、どこが違うのか。思い出そうと頑張れば頑張るほど、ますます思い出せなくなるのはなぜか。
認知症ではなくとも、加齢と共に脳の細胞は減っていき、記憶力は衰えていく。なかなか新しいことが覚えられなくなった・・・という実感のある方もいるかもしれないが、もしかしてそれは「覚えられない」のではなく、覚えているが「引き出せない」だけかもしれない。
ある研究1)によれば、年齢と共に衰えるのは新しいことを「覚える力」ではなく、「引き出す力」だという研究結果がある。実験の参加者は15名の学生(平均20.7才)と15名の高齢者(平均72.8才)で、覚える力は両群ともほとんど差がなかったが、引き出す力は高齢者群のほうが正解率が低く、時間もかかることが分かった。なぜ年を取ると引き出す力が弱くなるのだろうか。
まず考えられるのは、加齢により脳の細胞が減っていくことである。特に「海馬」と呼ばれる脳部位の細胞が、他の部位より減りやすいことが分かっている。この海馬は記憶の形成を司る脳部位である。さらに形成した記憶を呼び戻す時にも活躍する。このため、細胞が減って海馬がうまく働かなくなると、脳内に貯蔵された沢山の記憶を引き出して活用することができにくくなる。また、年を重ねて経験が増えるほど、神経細胞のネットワークは複雑になる。記憶の引き出しには、脳の複数の機能が関わっているため、間違えやすくなったり、引き出しにくくなったりする。ここで、思い出せない時に、脳の中で起きていることを、5つに分類してみた。(実際にはこんなふうにきれいに分けることはできず、5つのパターンの組み合わせになる)
1.そもそも記憶を作ることができなかった
2.情動が動かず、重要な記憶と見なされなかった
3.睡眠不足で記憶が整理されなかった
4.抑制が働いて記憶を引き出せなかった
5.長い間使わなかったために、記憶が劣化した
まずは1の記憶が作られない場合について述べてみる。
一番顕著なのは、アルコールによる記憶喪失である。これはアルコールにより、理性を司る大脳新皮質の働きが抑制された場合に、より本能に従った正直な姿が現れたといえるかもしれない。具体的に見てみると、記憶が作られない場合と、記憶は作られるが思い出せない場合とではどちらも「思い出せない」という点では同じであるが、脳のメカニズム的には大きな違いがある。
記憶が作られない場合、それが一時的な物でなければ病気に相当し、アルツハイマー型認知症や脳の海馬という部位に障害を負った場合などに起こる。
一方記憶は作られるが、思い出せないだけの場合は病気ではない。脳の通常の反応である。例えて言うと、朝食の記憶について、今朝朝食に何を食べたか忘れてしまうのは、普通の物忘れであるが、朝食を食べたこと自体を忘れてしまうのは、記憶の形成に問題がある病的な記憶障害である。毎日おきまりの動作で朝食を食べている場合、特に注意を払っていなければ、何を食べたかということは強い記憶としては残っていない。しかし、朝食を食べるという行為自体は、エピソード記憶といって、何を食べたかということよりも、残りやすい記憶である。このことさえ忘れている場合、そもそも記憶が作られていない可能性が高い。
普通の物忘れは体験の一部を忘れるが、認知症の物忘れは体験全部を忘れるため、忘れたことを自覚することも困難である。このため、さっき食べたはずなのに、「ご飯はまだか」というのは、とても悲しい情景でもある。その人の脳の中には少し前に自分がご飯を食べたことの記憶が作られていないのである。記憶が無ければ、本人にとってその時間は存在しないも同然である。これは単なる物忘れとは異なる。霧に包まれたような、自分の人生が消しゴムで消されてしまったような、恐ろしくて不安なことである。
 記憶の種類によっては、海馬を損傷しても余り影響を受けない物もある。脳トレのところで話した、運動能力や楽器演奏など、練習することで上達する手続き記憶である。よく「体が覚える記憶」と説明されるが、実際には身体が覚えているわけではなく、脳が覚えているのだ。何度も練習してピアノが弾けるようになるのは、指ではなく、指の動かし方を脳が記憶しているのである。手続き記憶の形成は、海馬ではなく、主に「小脳」や「大脳基底核」という脳部位が担っている。手続き記憶は言葉で上手く説明しにくい記憶なので、「非陳述記憶」といもいわれる。
 次は、記憶が作られて行くときの情報の流れを説明する。何かを体験すると、大量の情報が脳に入ってくる。情報の中身は、光や色や形などの視覚情報、声や物音などの聴覚情報、食べ物の匂いなどの嗅覚情報、そして感触など、感覚器が受け取る物がすべて情報である。感覚器とは目、鼻、耳、舌、皮膚など外界の情報を受け取る器官のことである。外界から入ってきた生の情報は、脳の中心部にある「視床」という部位に集められ、そこから2つの部位へ振り分けられる。情報の重み付けをするための「大脳辺縁系」と情報の分割と統合を行う「大脳新皮質」である。このうち大脳新皮質では、まず感覚野と呼ばれる部位に情報が入る。情報の種類ごとに処理する場所が決まっており、それぞれの場所で、細かく分断され加工される。大脳新皮質の「連合野」と呼ばれる部位では感覚記憶が統合され、意味ある記憶の元を作る。例えば、赤い、丸い、酸っぱい、美味しい、嬉しい、手触り、かじった感触などの感覚記憶 があちこちから同時に集まってきたら、それらを「リンゴをかじった経験」としてひとグループにまとめる。この記憶の元が海馬に送られる。海馬で処理され、インデックスをつけられて、一時的に保存される。これが「短期記憶」である。平均して80分、長くて2~3日の保持であり非常に短い。しっかり取っておきたい記憶は、情報を長期的に保管する保管室である「大脳新皮質」に送られるが、その前に必要な記憶を取捨選択し、整理しておく必要がある。その役割も海馬が担うのである。
-澤田誠著「思い出せない脳」-記憶のミステリー、より抜粋引用した-

注1)Craik F.I.M.,McDowdJ.M.(1987)Age differences in recall and recognition.Journal.of Experimental Psychology:Lerning,Memory,and Cognition,13(3):474-479

2023年08月01日
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