193.ヒトはどう死ぬのか?について、
ヒトの死を判定するには、3つの段階がある。いわゆる「死の3徴候」と呼ばれるものを確認する。「呼吸停止」「心停止」「瞳孔の散大」がそれである。この3つが揃うとヒトは死んだと判断される。一般の人は、人の死は医師が死亡を告げたときに起きたと思うだろうが、実はそうではない。そもそもヒトがいつ死んだということは、厳密に規定することはできない。なぜなら、臓器はある瞬間に一斉に機能を停止する訳ではないのだ。
例えば、死体腎移植は、ドナーが亡くなってから腎臓を取り出して、レシピエントに移植しても十分に機能を果たす。つまり,腎臓は死後もしばらくは生きているということだ。膵臓や眼球(角膜)等も同じである。また、肺や心臓でも、同時に機能を止めるわけではない。心臓の動きは心音や心電図、肺は呼吸で確認できるが、心音が聞こえなくなっても、心臓の細胞が全て機能を停止した分けではない。また、呼吸は止まっても、肺の細胞が全て死に絶えたわけでもない。いずれも徐々に機能の停止を来たし、細胞レベルでは順に死滅していくから、最期の細胞が死んだときなど、どんな計測器を使っても決定することはできない。
死のポイント・オブ・ノーリターン
突然死や即死の場合は別として、普通の死はまず昏睡状態から始まる。完全に意識が 無くなくなって、呼びかけにも痛みの刺激にも反応しない状態である。唸り声やうめき声を発していたり、顔をゆがめていたりする間は、昏睡とは言えない。昏睡の時は、エンドルフィンやエンケファリン等の脳内モルフィンが分泌されて、本人は心地よい状況にある等と言われるが、もちろんこれは仮説で、確かめようがない。脳内モルフィンは人生最後のお楽しみであり、本当に心地よい状態が用意されているかもしれないが、実際はそれ程でもなく、単に死戦期(生から死への移行期)の不安を和らげる為のオマジナイかもしれない。
昏睡状態になれば、一切の表情は消える。これは意識がないからだ。昏睡に至ると、間もなく下顎呼吸が始まる。顎をつき出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリタンとなる。呼吸中枢の機能低下によるモノなので、酸素を吸わせても意味が無い。つまりこれが始まると、回復の見込みはない。ほとんど空気を吸ってないように見えるので、初めて見る人にはあえいでいるように感じられるかもしれない。しかし、意識がないので本人は苦しくない(はずです。確認はできないが)この状態では蘇生処置を施したとしても元には戻らない。仮に戻ったとしてもすぐに下顎呼吸になる。生き物として寿命を迎えているのだから、抗わずに穏やかに見守るのが、周囲の人間の取るべき態度である。下顎呼吸はどのくらい続くのかは人によるが、大体数分から1時間前後で終わる。次第に呼吸が減っていき、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わって現れる。これは「チェーンストークス呼吸」といわれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となる。
死には3つの書類がある
これまで説明した話は、生き物としての死、すなわち生物学的な死についてであるが、ほかにも2種類の死がある。
それは手続き上の死と、法律上の死である。
手続き上の死というのは、死亡診断書に書かれる時刻、医師が死亡確認をしたことで認められる死のこと。これまで書いたように、医師の告げた死亡時刻と、生き物としての人の実際の死が微妙にズレルことは理解してもらえたと思うが、それが大きくズレルこともある。特に在宅医療などの診療を担当すると、「朝、起きたらおばあさんの息が止まっていた」というような電話を受けることもある。すぐに患者さんの家に駆けつけるが、死亡診断から遡って24時間以内に診察をしていないと、警察への連絡が必要になる。このため、患者さん宅に駆けつけて、明らかに亡くなっている患者さんの目に、ペンライトを当て、瞳孔の反応を確認し、動かない胸に聴診器を当てて、心音や呼吸音の聴取をするなど、死の3徴候を確認する。そしておもむろに、「*時*分、ご臨終を確認いたしました」と告げる。手続き上、人は医師が死亡を確認するまで生きていると見なされるのである。事故や災害などで心肺停止状態になった人が、病院に運ばれ、何時何分に死亡が確認されました、という報道があるが、そのタイムラグは、たいてい病院で懸命な蘇生処置を行っている時間である。蘇生のために手を尽くしてみたが、残念ながら戻らなかったというとき、死亡確認が行われ、はじめて手続き上、その人は死んだことになる。しかし、生き物としての実際の死は、心肺停止になったときと考えるべきである。
3番目の死は法律上の死である。いわゆる「脳死」です。日本でも2010年に臓器移植法が改正され、法律的には脳死が人の死と認められた。脳死とは、脳幹を含む全脳死のことである。脳幹とは、呼吸や心拍など、生命維持をコントロールする重要な部位で、ここが死ぬと、どんな蘇生処置をしても生き返ることはない。テレビ番組や週刊誌の記事などで、脳死からよみがえった等と紹介されることもあるが、それはそもそも脳死の判定が間違っているケースがほとんどである。
脳死とよく混同されるのは、「植物状態」である。植物状態とは、大脳は死んでいるから意識はないが、脳幹が生きているので、自発呼吸ができる。だから、水と栄養さえ与えれば生きているということで、植物と同じ状態と考えられる。
脳死のダブルスタンダード
脳死になっても、人工呼吸をしていると、しばらくは心臓は動き続ける。だから、心臓を含む臓器移植が可能となる。そもそも脳死という無理くりの概念がひねり出されたのは、臓器移植が可能になったからである。心臓移植は、生きている心臓を移植しなければならない。死体から取った心臓を移植しても動かないからだ。しかし、生きている心臓を取り出せば、ドナーは死ぬので殺人になる。だから、心臓移植では、心臓は生きているが、ドナーは死んでいるという、自然ではあり得ない状況が必要になった。そこで編み出されたのが脳死である。脳死は人の死と定義され、死んでいるのだから心臓を取り出しても殺人にならないというのが、法律上の解釈である。しかし、人工呼吸器をつけているとはいえ、胸は動いているし、体温も温かい。当然心臓も動いている。さらに、心臓を摘出するときには全身麻酔をかける。死体に麻酔?本当に死んでいるのかという疑問が湧くのは当然である。
ここに脳死に関するダブルスタンダードが発生する。
-久坂部羊「人はどう死ぬのか」より抜粋引用-