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2025-08-01

199.マッチング・アプリの文化的考察について、2025.8

     前回、依存症としてマッチング・アプリの一側面を述べたけれど、果たしてマッチング・アプリは、この時代のこの国にどのような存在意義があるか、ということにつき考えてみたい。
真剣にマッチング・アプリ画面を見つめてメッセージに心の内を託し、会えば自分の報われない恋愛歴を語って、「出会いたい」と切々と訴える人々がいる。彼らの中にある出会いへの期待や不安は、まさに岐路に立たされた現代人の意識をそのまま反映している。
彼らが探しているのは機能不全が明らかになった社会イベントや、結婚システムに同意する相手ではなく、自分という個にマッチングしてくれる相手なのだ。
相手に望む事は、ジェンダーギャップに安住している自分を変えてくれるきっかけだったり、将来への漠然とした不安の受け皿や、死ぬほど欲しい自己承認の証明だったり・・・・。
誰もが出会いによって自分の人生を補完したいと望んでいるということがわかる。
この本に出てくる男女は、皆、結婚制度に嵌め込まれて他人の人生のパーツになることを拒絶し、自分自身であるための結婚を模索していた。その結果、パートナーシップに欠ける自己中心的な相手探しをしている人々も多かったが、制度としての結婚ではなく、個人的な関係性構築の試行錯誤と考えれば納得がいく。
今の日本は、男性の31.3%、女性の23.3%が未婚(2020年国勢調査-全国の15歳以上人口の配偶関係)だと問題にされる。しかし、そもそもみんなが結婚する義務など全くないし、たとえ未婚率が50%、60%になろうと、少子化を食い止めるために社会貢献として、結婚しようなどという奇特な人は皆無であろう。
ここで注意すべき本質的な問題は、この中で何パーセントの人が、よきパートナーとして人生を共に生きることを望んでいるのに、残念ながらそれが叶わないということだけである。
とはいえ、ミソジニーバイアスのかかった結婚制度との葛藤はまだまだ根強く、複雑な気持ちが解決できない人々は沢山いる。
しかし、本書に登場するマッチング・アプリ依存症の人々は全員、関係性への欲求が強く、100人の婚活者がいたら100通りのパートナーシップがあって当然という考え方で婚活しているようだ。
彼らの話を聞くと、一般的な結婚なんて、もう完全に死滅したのだと痛切に実感できる。
筆者自身も、本書を書き終えた後、驚いた事に、心の中に未だに渦巻いていた結婚への息苦しい呪縛や重しが、ほぼ完全に消滅していたことに気がついたのである。アプリの合理的なシステムや、アプリユーザーたちの同調圧力をものともしないタフな婚活推進力のおかげで、日本のウザイ村社会の呪縛から精神的に自由になれたのかもしれない。
欧米でシステムの根幹が作られたマッチング・アプリは、ミソジニー国家日本の中でレアな治外法権地域である。
アプリの中では、妻にワンオペさせるパートナーを無能と責めるのは当たり前だし、子育てに加わらない夫は夫ではないし、経済的な対価が発生すべき労働にパートナーを無償で巻き込むのは搾取である(特に女性において「家業だから」と合意なく押しつけられる場合)。
さらに過去の離婚歴やその理由、過去の恋愛など、リアルで出会ったら聞きにくいことも気軽に聞くことが可能である。つまり、ミソジニー文化の悪癖をすべて取り除き、一般的な先進国の男女関係としてゼロから関係を築くことができる。それを前提にパートナー探しができるのは、やはりジェンダーギャップ指数116位(146ヶ国中)の国としては大きな前進だろう。
5組に1組のアプリ婚が、2組に1組になった辺りで、社会の意識は大きく変化するはずである。
結婚は完全に個人のものになり、結婚という言葉さえマッチング・パートナーに置き換わるかもしれない。肝心なことは協力し合えるパートナーができることであり、それ以外の男性優位社会に都合の良い規制はドンドン無くなるはずだ。
夫婦別姓や事実婚、同性婚なども、今、法的に認められなければ、結婚の現状に追いつけず、混乱や少子化を増やすばかりであることが全く分からない、一部の保守系国会議員が、選挙の
ために勝手に事実に反する主張をしているようだ。彼らはこの国の現状を全く理解できていない、あるいは理解しようとしないようだ。

 パートナー募集者も1人で生きたい人も、一度マッチング・アプリを試してみることは意味があるかもしれない。自分に本当にマッチングする相手なんかいるわけがないという絶望感から虚無を経て、本当はどのような関係性を求めていたのか、驚きの真実に目覚めるかもしれない。
マッチング・アプリは依存というマイナス面に働くだけではなく、従来の結婚枠から弾かれてしまう人たちが、アプリをセーフティーネットとして利用していることも理解する必要がある。
その理由は、マッチング・アプリとはゲームと考えると分かりやすい。ゲームといってもルールはシンプルである。「いいね」を送って相手からも送ってもらって、実際に会ってパートナーシップを結べばよい。別に勝ち負けはないし、高得点でチャンプになるとか、低得点で失格になるわけでもない。全ステージをクリアすればファイナルステージが現れるという点でもRPG的である。
この本を書くに当たり、強く実感したことは、日本の経済力の低下が結婚力の低下と密接に繋がっていることだ。それに最も大きな影響を受けているのは、結婚適齢期の20代、30代の男性である。非正規社員が多く、貯蓄もなく給料も安くて生活が不安定なので、結婚相手としては、どうしても分が悪い。
また、熟年離婚で妻に去られた男性も目立ったが、彼らは自己演出やコミュニケーションスキルの低さ、パートナーシップの欠落に唖然とすることも多々あった。指名手配犯のような仏頂面の自撮り写真、自己紹介文の絶望的な寒さや投げやり感、コンビニ弁当はもうイヤ、手作り弁当が食べたいという家政婦募集のような文言など・・・。見ていると「自分をよく見てもらいたい」「好かれたい」という気持ちを形にできない辛さをヒシヒシと感じる。その砂を噛むような味気ない自己紹介文こそが、彼らが結婚できない理由そのものなのであるが。
さらに脱ミソジニー社会への反省や、妻に子育ての重い負担を押しつけてきた自己改革への向上心も見られない。ここで向上心を発揮してくれれば、社会全体のジェンダーバイアスの改善にも繋がるのに、である。
とはいえ全世代を俯瞰してみると、婚活に向かう心構えとして自分の市場価値を客観視して、改善しようとする男性も増えている。コレは大きな希望が持てる。真剣に相手を見つけようとすると「ここを直さないと」という自分の弱点が見えてくるのは当たり前だ。それを自覚できるかどうかが婚活勝負の分かれ目でもある。
マッチング・アプリの最大の利点はうるさい世間の目が無いことだ。親も親戚も職場の同僚や上司も、アプリの中までは口を出せない。
偏見や先入観が介入せず、本人の好み、価値観だけがジャッジする。これは親や上司などが過干渉しがちな日本のウザッタイ村社会では、画期的に素晴らしいことではないだろうか。
-速水由紀子著「マッチング・アプリ症候群」より引用、一部改変した-

2025年08月01日
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