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2023-12-02

179.記憶のミステリー、その3、

 名前だけ思い出せないのはなぜか? 
我々の脳は、食うか食われるかの厳しい環境で「生き残って子孫を残す」という目的のために発達してきた。脳を持たない単細胞生物も、記憶のような能力を発揮することはできる。我々の身体の中にも、例えば侵入者の形を覚えて抗体を作る免疫細胞など、個別に記憶のような働きをする細胞が存在する。しかし、脳は大量の細胞が複雑に関係しあった巨大な記憶システムを作っている。また脳は、身体全体から考えるとアンバランスなほど大量に酸素を消費しているし、エネルギーの消費も同様である。摂取カロリー全体の20%を脳が消費するといわれている。生物は隙あらば「コスト削減」しようとするものである。例えば筋肉は使わなければアッという間に分解されてしまう。それなのに、脳という巨大な記憶システムを維持してきたことは、記憶が生存のために必要だったことを意味する。脳のことを考えるとき、現代社会に当てはめてはいけない。脳が発展して今の形になる原動力は、太古の地球環境である。我々の祖先がまだ狩猟・採集で食物を得て、肉食獣や他の人類に襲われる危険に満ちた世界野中で、脳は生き残り、子孫を繁栄させることを優先事項として、必死に頑張ってきたのだ。そんな世界では、自分を襲いに来る生き物の、唸り声や匂い、シルエットを記憶することと、その生き物の名前を記憶することでは、どちらが優先順位が高いかは明らかである。
 名前や数学の公式、歴史の年号など、現代社会で知識と呼ばれているようなものの記憶のことを「意味記憶」と呼ぶ。長期記憶の一種で、恐らく太古の人類には必要が無かった種類の記憶であろう。意味記憶と対を成すのが、「エピソード記憶」である。経験や体験に基づいた記憶で、時間や場所、感情などを伴う記憶である。
 仕事で初めて挨拶をした相手の名前が、山田さんだったとする。山田さんとか田中さんとか一般的な名前について強い情動はなかなか湧かない。人生で100人の山田さんと名刺交換できるかどうかチャレンジしているとか、好きな芸能人と同じ名前だったとか、何かしら特殊な事情がないと難しい。その人と話したことや、どんな顔だったかということや、感じが良かったなという印象は思い出せても、名前だけが思い出せないのは、名前が意味記憶で、意味記憶が生存に必須ではない記憶だから、情動が動かず、脳にとって思い出しにくいのである。未だに生存競争の激しい自然の中にいるつもりの脳が、勝手に優先度を下げているのだ。
けれども、現代社会を生きる我々にとっては、意味記憶のほうが重要な場面が多々ある。例えば、大学入試や昇進試験、重要な仕事のプレゼンなど、意味記憶を記憶する力が強いほうが生存に有利な道を進めそうである。現代社会で生き抜くためには、意味記憶を覚えるのが苦手な脳の性質をよく知って、うまく協働する必要がある。
 PTSDのメカニズムについて
記憶が残るか残らないかは、情動の動きに関係している。情動が働くポイントは人により異なる。旅行で同じ体験をしたはずなのに、同行者に聞くと覚えていることが全然違ったりするのも、そのせいである。好奇心を持っていろいろなことに心を動かすことは、記憶を強化する有効な手段である。しかし、強すぎる情動は記憶を必要以上に強化してしまう。
恐怖などの強い情動のせいで、記憶が強化されて、日常生活に支障を来してしまう病気がPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。PTSDは大規模災害や事故、恐怖体験や虐待など、ショッキングな出来事を経験した人に認められる疾患である。我々が何か記憶を思い出すとき、単にデータとして読み出すのではなく、そのときに感じた情動も同時によみがえる。良い思い出なら良いが、つらい記憶の場合、思い出すだけで嫌な情動に支配される。
しかも強く残っているために、ちょっとしたきっかけでも記憶がよみがえる。つらい記憶を意図せずに何度も思い出すのだ。情動は身体反応を引き起こす。頭痛やめまい、吐き気や手足のしびれ、また動悸が激しくなり、冷や汗が出ることもある。
さらに、意図せず突然思い出してしまうため、何を避けたら良いのか分からなくなり、日常生活に支障が出る。そのつらさから、睡眠障害やうつ、怒りが湧いてきたり、神経過敏、自己破滅的な行動につながることもある。
記憶を思い出すと同時に情動も生じるのは、誰でも起こる正常な反応である。通常は実際の経験よりも弱い情動が起こる。そして時間と共に、その反応も弱まっていく。しかしPTSDの場合、弱まることなく何度もよみがえり、しかもそのたびに記憶が強化されてしまう。
記憶は複数の関連する情動に紐付けられている。数学の公式のようにその記憶を引っ張り出すための強い紐が少なくて、なかなか思い出せないようなものもあれば、エピソードのように、強い紐がいろいろあって引っ張り出しやすい記憶もある。PTSDにおいては、本来ならばそこまで強く紐付けられていないものまで、強く紐付いてしまうことが問題になる。その結果、PTSDの患者は自分では制御できない脳の反応に苦しめられる。中には恐怖体験そのものは忘れているのに、無意識下にPTSDの反応が出て心理的な疾患に繋がるケースもある。
PTSDの治療は、この間違った紐付けを解消することにある。しかしこれ以上に詳しくは触れないことにする。

   --澤田 誠著「思い出せない脳」より抜粋引用した--

2023年12月02日
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