49.恐怖記憶の形成・消去と海馬の関係について、その1。
ヒトを含めた動物は危険な体験をした際に恐怖を感じ、そのときの状況を恐怖感情とともに脳内に記憶することで、再びそのような状況が訪れた際に、恐怖感情が呼び戻され、危険を防御・回避するための行動をとる。恐怖記憶は、ただ1度の恐怖体験で形成され、それが長時間、時には一生の間、保持される。しかし、さまざまな環境に生物が適応してゆくためには、一度獲得した恐怖記憶をさらに強化したり、他の記憶と連合させたり、消去したりする柔軟な記憶の書き換えが必要になってくる。この機能が傷害されると、ヒトでは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)やパニック障害などの不安障害を引き起こすと考えられている。
では、記憶はどのようにコントロールされているのか?記憶はその保持時間により、2相に分けられる。数秒から数時間程度の短期記憶と、1日以上、場合により数十年持続する長期記憶である。短期記憶の形成は既存の分子の修飾により行われるのに対して、長期記憶の形成には新たに合成された蛋白質を必要とする。不安定な状態である短期記憶から安定化した長期記憶に変化する課程は、記憶の「固定化consolidation」と呼ばれる。最近の研究から、固定化された記憶を想起した後に、いったん記憶が不安定な状態に戻り、その記憶を保持・強化するために新たな蛋白質合成を必要とする「再固定化reconsolidation」過程が存在することが示された。また、再固定化過程とは反対に、記憶想起後に元の記憶が抑制・現弱する「消去学習extinction」が行われることも示されている。
マウスを使った驚愕反応の研究によれば、恐怖条件付けの成立に中心的な役割を持つのが大脳辺縁系に属する扁桃体である。では海馬はどのような役割があるのか?音恐怖条件付けの場合は、聴覚情報は直接視床から扁桃体に入力されて、海馬を必要としないが、視覚・触覚などの感覚情報を組み合わせて状況を認識する文脈性恐怖条件付けの場合は、文脈情報が海馬から扁桃体へ伝達され、海馬依存的となる。ここで、記憶は固定化されると安定して脳内に貯蔵されると考えられてきたが、最近の研究の結果、恐怖記憶は想起された状態で不安定な状態となり(不安定化)、その後新規蛋白合成を必要とする「再固定化」が必要なことが示された。ところで、一度形成された記憶は、想起するとなぜ不安定化し、再固定化するという、一見無駄な過程を経る必要があるのだろうか?いくつかの仮説がある。1つ目は、再固定化を通じて記憶を強化するため。2つ目は一度形成された記憶を新しい記憶と統合させたり、修正したりするため、必要であるとする。
一度形成された恐怖記憶は、「消去学習」によって抑制することができる。恐怖条件付け実験において、A・B、2つの刺激を同時に与え、条件付けした後に、Bのみの刺激にしてみると、最初は高い驚愕反応を引き起こすが、繰り返していくと、次第に反応を示さなくなる。この過程を記憶の「消去学習extinction」という。PTSDの治療では、患者に安全な環境下で、繰り返し恐怖体験を想起させ、記憶を整理し、恐怖を現弱させていく持続エクスポージャー療法という行動療法が用いられているが、これは消去学習の基づいていると考えられる。
-鈴木玲子・井ノ口馨著「恐怖記憶の形成・消去と海馬」分子精神医学4.2012より 引用-