176.思い出せない脳-記憶のミステリー、その2-睡眠不足と記憶について、
睡眠は脳に次のような恩恵をもたらします。
1.脳の機能を回復させる
2.脳の老廃物を排出させる
3.記憶の整理・編集・定着が行われる
以上の直接的な影響以外にも、十分な睡眠は免疫機能や自律神経を整えるため、脳にダメージを与える生活習慣病の予防になり、間接的に脳を守る事につながる。寝不足によりこれら機能が損なわれると、思い出せない脳が作られやすくなってしまう。
ラットを眠らせないという実験を行うと、2週間足らずで全て死んでしまう。人を死ぬまで眠らせないという実験は倫理上できないが、睡眠不足が続くと確実に体調や脳の調子が悪くなることは、皆さん経験があるはずです。人が限界まで眠らないとどうなってしまうのか。
1964年に、アメリカの男子高校生ランディー・ガードナーが、自由研究のために、自分の身体を張った実験を行い、なんと、264.4時間(11日と25分)という不眠のギネス記録を作った。開始後2日目に、ランディーは簡単なテストに失敗するようになった。その後幻覚や視力低下、被害妄想などが起き、最終日に近づくと極度の記憶障害も生じた。実験終了後、ランディーはたっぷりと睡眠を取り、とりあえず健康上の問題も無く回復した。なお、この不眠記録は危険なため、ギネスでは新たな記録を載せないと決めたことを申し添えておく。のちに大人になったランディーは、ラジオ番組に出演して、実験が原因でその後の人生で不眠に見舞われたことを告白している。睡眠不足の影響は、いつどのような形で出るのか、まだまだ分からないことだらけである。無理なチャレンジはしない方が賢明である。睡眠がどの位必要かは個人差がある。何時間眠れば大丈夫ということは言えない。最近はスマートフォンのアプリで睡眠の深さを測定できる物も出てきている。布団の振動を元に推測する方法をとっている。もっと精度が高いのは、時計や指輪の形をしたウェアラブルデバイスをつけて眠る方法である。睡眠中の身体の動きや毛細血管の血流速度を測定し、体動に加えて心拍数や呼吸などから睡眠状態を計測する。長時間眠っているのに疲れが取れない人は、もしかしたら途中で何度も目覚めているかもしれない。「睡眠時無呼吸症候群」は睡眠中に何度も呼吸が止まる病気である。平均して1時間に5回以上、1回につき10秒以上息が止まる場合に診断される。呼吸が止まったら大変だから、脳はそのたびに目覚める。またすぐに眠りに落ちるので、夜中に何度も目覚めていることに本人は気づいていない場合が多い。それだけ目覚めれば当然寝不足になり、身体の調子も悪くなる。また、睡眠の質が悪いと、この後に述べるように記憶の機能にも支障が出る。
睡眠の深さは一晩の中で幾つかのステージを取るが、夢を見るのは主にレム睡眠と呼ばれる眠りの浅い段階である。ノンレム睡眠の時にも人は夢を見ることがあるが、夢の種類や性質はレム睡眠とノンレム睡眠では異なっている。身体を動かすのも、外からの刺激を処理するのも脳の仕事なので、脳の処理量は眠っている時の方が、起きているときと比べれば少ない。外からの刺激を処理する大脳や、運動に関係する小脳などは、起きているときよりも活動は低下し、休息状態に入る。(但し活動が止まることはない)PETやfMRIで睡眠中の脳の働きを調べた研究では、論理的な思考や計画などを司る前頭前野の活動は約25%も低下することが分かった。一方で、起きているときよりもむしろ、睡眠時に活動が増える脳の部位がある。大脳辺縁系である。
大脳辺縁系は主に情動を司る脳部位である。さらに目を閉じて眠っているはずなのに、大脳新皮質の視覚連合野の活動は起きているときと変わらず、レム睡眠中は目覚めている時よりも活動性が上がっていた。(大脳辺縁系10~20%増加、視覚連合野5~10%増加)これらの結果は、夢に、生き生きとした視覚イメージが伴うことを解き明かしてくれる。情動が伴うのは大脳辺縁系の活動の影響である。また、支離滅裂で論理的におかしい内容が多いのは、思考を伴う前頭前野が休んでいるためである。
夢は、新しく作られた短期記憶を選別し、長期記憶に固定する過程に生じると考えられている。古い記憶がランダムに想起され、新しい記憶と付き合わされ、無意識の情動フィルターを通して選別されていく。記憶の選別をしながら、脳は最終的に、マインドセット(思考の癖)の更新を図る。今ある物より重要な記憶が入ってきたら置き換えて、最新で最善の判断基準を作る。作業の最中に現れた記憶が、目覚めたときに意識に上って認識されたものが夢である。
長期記憶を形成するために、睡眠はとても重要である。睡眠中は外部からの情報がほとんど入ってこないために、脳が記憶を整理する絶好のチャンスである。整理といっても、ただ空いている場所に収めるだけではない。不必要な物を選別し、過去にしまった記憶を引っ張り出して照らし合わせ、どちらが重要なのか判断して、より需要だと思われる方を採用するという、かなり動的な記憶の再編集が行われている。
この過程をもう少し詳しく説明すると、ランダムに呼び覚まされた記憶は、海馬に一時的に蓄えられている新しい記憶と比較検討される。この作業はワーキンングメモリが担当する。これまでため込んだ情報と新しく取り入れた情報のどちらをキープしておくのが生存に有利なのか、ワーキングメモリを使って選択する。ワーキングメモリとは記憶整理の作業台である。ワーキングメモリの働きは、複数の情報を一時的に保持して、情報の関連性を見つける役割をしている。昼間はその働きにより、複雑な判断や行動を行うことができる。眠っている間のワーキングメモリの役割は、古い記憶と新しい記憶を比べて関連性を見つけたり、取捨選択をすることである。ランダムに過去の記憶が想起され、ワーキングメモリで選別作業を行う過程で夢が生じる。夢が支離滅裂だったり、どこかつじつまが合わなかったり、それでいて全く自分と無関係ではないのは、もともとは自分の経験から作られた記憶が元になっていて、それが制御されずにでてきているからである。夢がでたらめであっても、脳は夢を見せるために、このような活動をしているわけではないから問題は無い。本来の目的は長期記憶の形成であり、夢はいわば副産物である。
記憶を整理して短期記憶から長期記憶に移行して保存することを「メモリーコンソリデーション」(memory consolidation)と呼ぶ。日本語にすれば「記憶の固定化」である。睡眠はこの記憶の固定化に重要な役割を担っている。脳のメンテナンスだけでなく、眠っている時自体が、記憶形成に必須なプロセスなのだ。しかし記憶の固定化といっても、完全に固定化されるわけではなく、常に出し入れして中身を見直し、更新されていく場所である。
これらのことから、睡眠は記憶にとって大切な機能を持っており、睡眠不足は思い出せない脳を作ってしまう可能性が高いことを知っておく必要がある。
-澤田誠著「思い出せない脳」-記憶のミステリー、より抜粋引用した-
2023年09月01日