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2024-02-04

181.ソロ社会の未来について、その2

 前回はソロ社会の到来と、そのとらえ方について、簡略に説明した。今回は、ソロ社会の未来について、もう少し考察してみる。
生涯未婚率の上昇、単身世帯4割、離別死別に伴う高齢独身女性の増加など、人口の半分がソロ生活者となる未来がやってくる。残念ながら、少子化の解決には寄与しない彼らソロ生活者だが、だからといって決して意味の無い存在ではない。結婚して子どもをつくり、家族となることがスタンダードという考え方からは、そろそろ脱却すべきだ。誰もがいつかはソロに戻るという観点こそ重視すべきである。消費力の旺盛な彼らのための商品・サービスの充実は、今は想像できない新たな需要を生み出し、それが大きな未来の力になる可能性を秘めている。それでもまだ「ソロで生きる彼らは幸福でない、そんな生き方は幸福であるはずがない」と言い張って聞かない人たちがいる。もし彼らが幸福であったら誰が困るのかと追求したいくらいだが、そういう決めつけがある。では、何をもって幸福といえるのだろうか。
絶対的な幸福の尺度が存在しないため、その定義は難しい。過去と比較して相対的に今が好転していれば、それはそれで幸福を感じるかもしれないが、相対的なモノならばなおさら数値化できない。
 実は、そもそも日本人は幸福度が高くない。アメリカのシンクタンク、ピュー・リサーチセンターが2014年に世界43カ国を対象として「幸福度」を調べたが、日本の幸福度は43点、アメリカ65点、ドイツ60点など、先進国の中では最下位グループに位置している。アジアの中でも、中国、インドネシア、韓国よりも下である。全体的に、GDPの高さと幸福度は正の相関にあるが、唯一日本だけが「GDPが高いのに幸せを感じられない特殊で不幸な国」となっている。
謙虚な国民性、メリットよりリスクを考える慎重さ、周囲との和を尊重する協調主義的な国民性など、もっともらしい理屈は挙げられるが、それらは意味を成さないだろう。何故ならば一人ひとりの心の中の感受性の問題だからである。小さなことに幸せを感じる人もいれば、どんなにお金持ちで豪邸に住んでいようと、不幸と感じる人もいるのだ。
よく言われるのは、家族を持たない未婚者は不幸度が高いということだ。未婚者と既婚者、男女年代別に調べたところ(n=520)、確かに既婚者のほうが幸福度を多く感じている。既婚者の場合は大体80%位で、年代が上がるごとに幸福度は若干下がる傾向はあるものの、ほぼ全年代が同等である。一方、未婚者の場合は、男女とも40代が最低となる。特に40代未婚男性は幸福と感じる率が、わずか36%しかいない。むしろ不幸と感じる率28%と変わらないくらである。40代まで未婚だった男性は、結婚できないがゆえに不幸感が最大化するという解釈もできるが、それが全てではない。逆に、50代になると幸福度が上がるという共通点がある。不思議なことに、ソロ男、ソロ女ともに、「自己有能感」と「自己肯定感」のバランスが良くて、既婚者とは逆転している。自己有能感とは、学業や仕事などで他者より自分は優れているという自負であり、自己肯定感とは、自分が好きかどうかという視点である。既婚男性や既婚女性では、自己肯定感が高いが、自己有能感は低い。それに対してソロ男、ソロ女とも、自己肯定感も自己有能感もほぼ一定して保たれている。既婚の男女はたとえ「自己有能感」が低くても、それも含めて自分自身を好きだと感じる「自己肯定感」が高い。それに比べて、ソロ男・ソロ女は「自己有能感」が高い割りに、「自己肯定感」はそれ程高くない。どちらかというと「有能でない自分は好きになれない」意識が強いともいえる。特にソロ男に関しては、「がんばった割に評価されていない」という承認不足への不満や、「まだまだこんなものでは満足しない」という達成感に対する厳しさが影響していると考えられる。そんなストイックで自分に厳しい面が、未婚者たちの幸福度の低さと関係しているといえるかもしれぬ。逆に、既婚者男女の幸福感が高すぎるのではないかという疑問も生まれる。既婚者の男女とも、全年代で80%以上も幸福感を抱いていることは決して悪いことではない。しかし、現状こそが幸せであるという認識は、裏返すと離別死別でソロに戻った瞬間、未婚者並の不幸感に落ちてしまうともいえる。いや、むしろ相対的に見れば、幸せだった経験があるだけに不幸度は強いかもしれない。
 ソロ男・ソロ女は、消費により幸福感を得ていると説明した。それは決してお金で幸福を買っているわけではない。あくまで消費を通じて自己の「承認」と「達成」という精神価値の充足を追求している。「エモ消費」で幸福感を得るためには、金を消費して得たツールを使って、何らかの能動的な行動を伴う。そしてそれに彼らは時間をかけている。たとえば、ボディービルディングや格闘技などのスポーツにのめり込み、身体を鍛えまくる人がいる。カートレースに夢中になる人、プロ顔負けのアート写真を撮る人もいる。アイドルの追いかけに命をかけている人もいるし、コミケのコスプレに熱中する人もいる。はたまた、歴史的な城郭や古戦場だけを旅する人もいる。1点集中して傾倒するタイプもいれば、多種多様な趣味に広く浅く取り組むタイプもいる。いわゆる「オタク」的なタイプばかりではない。断っておくが、彼らは決して友人がいないわけではない。むしろこうした趣味の縁でつながった人々との交流は盛んであるし、写真・イラスト・音楽などのクリエイティブな領域では、ネット上で繋がることも可能である。これらの言語を必要としない作品であれば、それこそ全世界の人々と繋がることができる。何語であろうと、ネット翻訳機能を使えば、それこそコミュニケーションできるし、ネットを通して何年間も交流することが多々ある。一度もリアルに会ったことがないからといって、その関係性が希薄なものだと断じることはできない。関係性の強さは、何で繋がっているかではなく、どれだけ頻繁に長く繋がっているかで決まる。遠距離だろうが、国籍が変わろうが、そんなことは関係ない。そして、そういう同じ趣味関心領域でつながった相手と交流することこそが、彼らにとってもっとも幸福感を感じる瞬間なのだろう。
「家族を持てば本当の幸福の意味が分かるよ」というような物言いは、「家族を持てない様な人間は不幸にしかなれない」と決めつけているようなもので、それこそ乱暴で傲慢である。実体験から言わせてもらうと、このような結婚教の人たちとの会話は常に平行線だった。永遠に理解してもらえないのかもしれない。よって、結婚する人としない人とでは、そもそも幸せの貯蔵庫自体が違うのだと結論付けるに至った。ノーベル経済学賞の受賞者で、行動経済学の祖といわれる米国の心理・行動経済学者のダニエル・カーネマン氏は、「幸福とは、自分の愛する人、自分を愛している人とともに時間を過ごすことだといっても、あながち言い過ぎではない」と述べているが、彼の言う「自分の愛する人、自分を愛している人」が、恋人や家族、親子であるとは限らない。自分と興味・関心や、価値観の合う人、または「考え方を同じくする人」との交流でも十分に幸福は感じられる。さらには、人であるとも限らない。「好きなことと、共に時間を過ごす」のもまた、幸福の形である。
誤解してほしくないことは、ソロ社会とは決して孤立社会ではなく、ソロで生きるとは、山ごもりのような仙人になることでもない。しかし、現実は核家族化が進んで、都会においてはコミュニティーが希薄となり、ほとんど消滅しかけているという事実がある。「ソロで生きる力」とは、「精神的自立」を意味するが、自立とは何者にも依存しないということではない。むしろ、依存することのできる多くのモノや人に囲まれて、自ら能動的に選択し、自己決定できる人こそが、「精神的自立」と解釈したい。

-荒川和久「超ソロ社会」独身大国・日本の衝撃-より引用した

2024年02月04日
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