210.不安の対処には-五感使って、
今年3月末、ロサンゼルス(LA)の診察室で女性内科医に「血液検査では異常は全くない。あなたのそれ、メンタルかもね。病院のカウンセリングの予約を入れておくから、必ず受診してね」といわれた。え?カウンセリング?ちょっと待って。私はこのメマイの症状をなんとかしてもらいたいだけなのに。
米国ではカウンセリングを受けることは「健康管理」の一部で、プレッシャーの掛かる責務を担う企業の重役や、一般人の中にもカウンセリングを積極的に利用する人もいる。日本でも最近はそうでもない様だが、かつての日本のような終身雇用制度など本来存在しない米国では、勤続10年、20年であろうが、ボスの一存で明日いきなりクビになる可能性がある。誰もがその恐怖を心の底に持っているからなのかもしれない。アメリカ疾病予防センターによると、2023年の1年間に米国成人の23%、約6000万人がカウンセリング等を利用している。今回初めて病院での臨床心理カウンセリングを受けて、想像以上に効果的であったと感じた。 そもそも事の起こりはこの2週間前に遡る。
「まずい、立っていられない」3月半ばに、カリフォルニア州の砂漠地帯で行われたテニス大会を取材していた時、43度の炎天下でメマイに襲われた。脱水症状で全身がブルブルと痙攣し、金魚のようにパクパクと口を開けて呼吸しても息苦しくてしんどい。近くのクリニックのナースが「ウチでは対処できないから」とウーバーを呼んでくれて、一番近くの救急病院に運ばれて、到着すると直ぐに車いすに乗せられた。待合室は超満員。車椅子のまま「トリアージュ」と書かれたドアの前で放置されたが、座っていることすら辛くて、ドサっと床に崩れた。「そこ!床に寝ないで!立ちなさい!」と女性係員に怒鳴られ、車いすに戻された。2時間後、やっと名前が呼ばれて、ヨタヨタと歩いていったが、力尽きて膝から崩れ落ちた。「なにやってる?この床は患者が嘔吐して汚いんだよ。立ちなさい!」と同じ係員が怒っている。「立てません」といっても「立て!」と返ってきた。周囲を見渡すと、床に転がる私を100人以上の患者達の目がじっと無言で見つめていた。さらに2時間たって、やっと医師に診てもらえた。点滴を受け、何とか車を運転して3.5時間離れた自宅に帰り着いた。1週間後、体調は回復して、歯科治療を受けに行った。だが、診察室に足を踏み入れた途端「あ、まずい」と感じた。炎天下の砂漠で起きたのと同じメマイがする。結局歯科治療は受けられず、車のハンドルを握っても数メートル運転するのがやっとであった。友人に車で迎えに来てもらい、LA市内の救急病院に担ぎ込まれ、点滴を受けた。日頃はすこぶる健康なのに、短期間に2度も救急病院に担ぎ込まれるなんて、熱中症の後遺症は怖いと思った。救急病院を受診した患者に義務づけられた診察を受けに、数日後、病院直営のクリニックに行くと、血圧を測られた瞬間に急にメマイに襲われ、椅子の上で、まるでタコのように身体がグニャリと横になってしまった。「一体どうしたの?」と冒頭の医師が驚く。砂漠の病院で床に転がって怒られたことを話すと、彼女は「PTSDかもね」といったのだ。
こうして内科医から問答無用で即3日後に予約を入れられたプロの臨床心理カウンセラーとの、1時間のセッションが始まった。「家族から虐待されたことはありますか?自殺を考えたことは?」大学院で資格を取り、州の免許を持つ30代半ばの女性カウンセラーAさんがズーム越しに聞いてくる。「砂漠の救急でのあの日以来、診察室に入ると、気温はそれ程高くないのに、熱中症のような症状やメマイで、運転ができなくなるんですね?」確かにその通りだ。2回目のセッションは、病院内のAさんの個室での面談であった。病院らしくない落ち着いた茶色の壁紙の部屋である。
「急にメマイがおきるかもという不安がわき上がってきたら、五感を思いっきり使うことを意識してみて」と彼女は言う。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の全てをフルに使い「今、ここ」に集中するのだと指導を受けた。
このテクニックが役立つ時が直ぐに来た。17万人が来場するLAブックフェアが開催されて、取材に行くと、炎天下のトークイベントだった。暑い場所、つまりあの砂漠の灼熱の太陽が脳裏に浮かんだ。「これはまずい」慌てて氷の入ったメロンジュースを買って、氷をがりがりと噛んで冷たさを味わう。ジュースの濃い緑色を視覚で確認しつつ、何とか取材をこなした。いざ帰ろうと車に乗りドアを閉めた途端に、津波のように不安が押し寄せてきた。メマイは無いが、今すぐに横になりたい。しかしその地域は特に治安が悪く、ドラッグ依存症のホームレスの人が道ばたに大勢いるのが見える。車を止めて横になれば一瞬で車ごと奪われてしまう。救急車を呼ぶべきかと考えたが、「いや、身体に異常は無い。居心地は悪いが五感に集中するしか無い」と自分に言い聞かせて、ジュースの容器の中の氷を手でつかんだ。手のひらや指はブルブル震えていたが、氷を首や顔に押しつけてその冷たさを皮膚で感じ、車の窓を全開にして、大声で歌を歌いながら、「大丈夫、できる」と自分に言い聞かせて運転して、何とか自宅に戻った。3回目のセッションでこの経験を話すと、カウンセラーAさんは「よくやったわね」と褒めてくれた。彼女は「治安の悪い場所で倒れたら襲われるかも」という不安は、視覚と防御本能から来る正当な反応であるという。「でもそれは、まだ起きていないことへの不安であることに気づいている?」
実際に目の前で起きていることだけに集中する練習を積めば「まだ起きてないことに対する怖いこと」に脳のリソースを必要以上に使わずに済むのだという。そう言われても簡単に「怖いこと」は振り払えない。「わかる。だから不安な自分を少しだけ俯瞰して”鳥の目”で見る練習をしてみるとラクになる」とAさんがいう。
プロの臨床心理カウンセリングを受けて分かったことは「今、自分が一番困っていること」を吐露するとピンポイントで直ぐ対処法を教えてくれることであった。パニックに近い症状が起きる場合、直前に不安が入道雲のようにムクムクと広がり、「あ、くるな」という前兆がある。Aさんからは「その瞬間に海の波の音を思い浮かべてみたら?」「自分が今週できた小さなこと3つを褒めてみる」「自分は楽しんではだめだと思っていない?」等の予想外の言葉が返ってくる。まるでテニスボールを打ち合っているような感覚である。このリアル感は、自己啓発書を読んでも得られない。筆者の場合は医師がカウンセリングを「処方」したために医療保険でカバーされた。
日本では、カウンセリングに対する抵抗感が強く、生命保険会社の公表したデータでは、利用経験のある人は6%にとどまるという。カウンセリングは不調を感じたときの選択肢の1つになると良いと思う。その後メマイは起きなくなったが、今でも暑い日に運転するときには、車内にレモンを1つ入れておく。何が起きても、五感のなかで、最も効きそうな「酸っぱい味覚」で自分を刺激して、自宅まで運転して帰れるはず、だから。
-長野美穂「不安湧いたら五感つかって」-カウンセリング大国からの報告:
6.29.2026、No.29、アエラより引用
2026年07月01日
