185.感情があるのは生存のための戦略、
生まれて初めて息を吸ってから、人生最後の吐息の時間まで、あなたの脳はたった一つの問いに答えようとしている。それは「いまどうすればいい?」という問いだ。脳は昨日起きたことなんて少しも気にしていない。すべては現在と未来のためだ。たった今置かれている状況を判断するために記憶を活用し、感情を基にして正しい方向に自分を動かそうとする。だが、ここでいう正しい方向とは、精神状態が良くなったり、キャリアアップしたり、健康を維持したりすることではない。祖先がやったように、生き延び、遺伝子を残すという方向である。
感情というのは「自分を取り巻く環境への感想」ではない。周囲で何が起きているかに応じて、身体の中で起きている現象を脳が反応としてまとめたものだ。それが我々を様々な行動に出させる。奇妙に思えるだろうか。では、最初から見ていこう。誰だって自分の感情を理解し、制御したい。調子の悪いときは特にそう思う。そのためには、そもそも感情とはいったい何なのか、なぜ人には感情があるのかを理解する必要がある。感情には、精神を充実させるよりも相当重要な機能がある。
他の種と同様に、人の身体と脳を形成してきた唯一の基本ルールは「生き延びて、遺伝子を残す」ことだ。進化は、異なる戦略をいくつも試してきた。例えば「できるだけ俊敏になって、敵から逃げる」もしくは「景色に溶け込み見つからぬようにする」。「他の種には取れないような餌を取れるようにする」というのもある。長い首のおかげで、キリンは他の動物が届かない葉を食べることができる。また他の戦略に、これは人の場合だが、「生き延びられるよう行動させる」がある。つまり感情というのはもともと、キリンの長い首やシロクマの白い毛皮と同じように、生き延びるための戦略だった。身体的特徴だけではなく、素早く柔軟に、全力で行動に出られるように進化したのだ。
人のあらゆる活動は-例えば、顎を掻くことから、原子爆弾を爆発させることまで-たった一つの要求の結果だ。その要求とは、胸の内の精神状態を変えたい、というもの。そこを出発点にして、我々は感情に支配される。脅されると、怯えるか怒るか、逃げるか攻撃に出るかだ。身体にエネルギーが足りなくなると、お腹が空き、食べ物を探そうとする。
ここが完璧な世界で、その人が直面する選択肢の情報をすべて得ることができるとしよう。サンドイッチを食べようかどうか悩んでいる人は、栄養素、味、パンが焼きたてかどうかをちゃんと把握している。今、自分の身体に栄養を補給しなければいけないこと、それにはサンドイッチが最適だというのも分かっている。そういった情報をすべてまとめ、サンドイッチを食べるか否かを合理的に決定することができる。もし我々の祖先がこんな「完璧な世界」に暮らしていて、蜂蜜がたっぷり詰まったハチの巣の前に立ったら、蜂蜜が秘める危険性と可能性についてあらゆる情報を手に入れられたわけだ。その巣に蓄えられている蜂蜜の量とカロリー、自分の貯蔵エネルギーが今どのくらい残っているのか。巣から蜂蜜を奪う為に、負傷する危険性はどのくらいあるのか。ハチ以外に危ないものはないか?簡単に全ての情報をまとめ、蜂蜜を取るべきか否かを合理的に決定することができる。問題は、祖先が住んでいたのはそんな完璧な世界ではなかったし、我々がいる世界もそうではないことだ。
ここで感情が登場する。我々に様々な行動をとらせ、瞬時に全力で行動に出られるようにするのが感情だ。意識ある「あなた」が十分な情報を持ち合わせていない場合、もしくは決断に時間が掛かりすぎる場合、脳は即座に大まかな見積もりを取り、感情という形で回答を返してくれる。「すごくお腹が空いた、だからサンドイッチを食べよう」あなたの祖先も同じように、空腹を感じて蜂蜜を取ったのだ。それで大変な目に遭う可能性は高いと判断した場合、もしくは究極に飢えていた場合は、危険が大きすぎると判断すれば、恐怖を感じて止めておく。スーパーのお菓子売り場の前に立つと、餓死を回避すべく進化したアルゴリズムが素早く見積りを取り、我々に 答えを与えてくれる。「お菓子が食べたい!」そんな激しい欲求という形で。食べ物が溢れるほどある現実に、脳は追いついていない。だからお菓子の棚の前に立つと、多くの人は合理的な判断を下せなくなる。我々がカロリーを欲しがるマリアの子孫である可能性は非常に高い。餓死した方のカーリンではなく。
こんな風に、感情は良くも悪くも人に様々な判断をさせる。ところで、それは独立した現象ではない。感情が湧くことで、身体と脳に連鎖反応が起こり、それが器官の動きに影響するだけでなく、思考のプロセスや、周囲をどう解釈するかにも影響してくる。
恐怖を感じた瞬間に、脳はコルチゾールとアドレナリンを放出する指令をだす。心臓が速く強く打ち始め、筋肉に血流が送り出される。逃げるにしても、攻撃に出るにしても、最大限に力を発揮できるようにだ。お腹が空いているときに食べ物を見ると、脳がドーパミンを放出し、食べたいという要求を促す。ドーパミンはオキシトシンと同様に、性的に興奮するときにも放出され、他人との絆も感じさせる。そのおかげで、テレビ画面ではなく隣にいる人に集中できるのだ。
ネガティブな感情はポジティブな感情に勝る。人類の歴史の中で、負の感情は脅威に結びつくことが多かった。そして脅威は即座に対処しなければいけない。食べたり飲んだり、眠ったり交尾したりは先延ばしできるが、脅威への対処は先延ばしできない。強いストレスや心配事があると、それ以外のことを考えられなくなるのはこれが原因だ。我々の祖先は、明るい希望よりも脅威のほうがはるかに多い環境に生きていた。負の感情を頻繁に感じるのは、ほとんどの言語で負の感情を表す言葉の方が多数あることからも見て取れる。そもそも、普通の人は負の感情の方がずっと気になる。修羅場のない映画や小説を読みたい人なんているだろうか。
負の感情の根源はストレスなのだ。
-アンデシュ・ハンセン著「スマホ脳」より抜粋引用-