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2011-02-10

19.うつ病臨床における「えせ契約」(Bogus contract)について

 うつ病臨床の混乱は、診断学の問題に見えて、実は医師・患者間の「えせ契約」の問題である。 これは精神医学だけの問題ではなく、医療界全体を蝕む深刻な危機であり、なにも本邦だけの問題でもない。従って、原因を医学の科学的基盤の脆弱性に帰しても、何一つ解決策は得られない。医師にできること、患者が求めることの乖離こそが、事態の本質なのである。現代医学を過信する患者たちは、医師はその気になれば何でもわかるし、相談すれば何でも解決してくれると思っている。一方医師は、医療には限界があり、行き過ぎた治療は危険だと思っている。この、医療を過大評価する患者と、過大評価を知りつつ誤解を解こうとしない医師の間で、治療契約は相互欺瞞の営為と化した。
 うつ病臨床においては、この相互欺瞞がグロテスクなまでに誇張されている。 今日、「うつ病」とされる事態は、生物学的病態をはらむ場合すら、労務(超過勤務、パワハラ、派遣切り)、貧困(失業、多重債務)、対人(上司・部下関係、家族関係)などの諸問題を付随させている。
 この状態で、「うつ病は脳の病気」と宣言すれば、直ちにコミュニケーション・ギャップが生じる。医師側は、自分の債務を薬物療法に限定させようと思ってこう宣言するが、患者側は、逆にすべては薬で解決してもらえるのかと錯覚する。その際に両者は重大な事実を隠蔽する。医学には限界があり、人生のすべての問題を抗うつ薬が解消してくれるわけではないという自明の理である。
 患者は煩雑な問題のすべてを投げ出して、医療にゲタを預けるべきではない。精神科医は、患者に対して、医学にできることとできないことを明示し、勇気を持って現実に向き合うように、促すべきである。

井原裕講演抄録「うつ病臨床におけるエセ契約について」
 ー精神神経学会雑誌112巻11号2010年-より引用

2011年02月10日
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