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2023-05-01

172.フードテックの新潮流-ゲノム編集から食べるワクチンまで、その2。

 海洋部門のトップバッター、遺伝子組み換えサーモンは、1989年に米国アクアバウンティ・テクノロジーズ社が遺伝子組み換え技術により、通常の2倍の速さで成長するサーモンを開発し、1995年にFDAに申請して、2010年に当局から、環境にも人体にも安全で従来の養殖サーモンと変わらないという承認を得て、2015年に許可を取ることに成功した。それまでにも動物の遺伝子組み換えは実施されてきたが、さすがに人間の食べ物となると市場にでる障壁は高く、様々な軋轢を生んできた。最終的な承認を得るまで20年、「フランケンフィッシュ」などとおどろおどろしい名前で呼ばれ、消費者や生物学者からの反対に遭い、「遺伝子組み換え表示」で更に叩かれた。世界初の遺伝子組み換え動物として食卓に上る許可を得てアメリカで出荷が開始されたのは、開発から30年以上たった2021年5月末のことであった。「ようやく船は岸辺を離れ、前進を始めました。我が社の遺伝子組み換えサーモンは、今後の有力な食糧自給策として、大いに貢献するでしょう」と、同社のシルヴィア・ウルフCEOは、ここまで来た安堵と喜びを表しながら、株主たちに力強くアピールした。これが主流になれば、海洋プラスチック問題も、乱獲による絶滅危惧種増大問題も解決に向かう、一石三鳥になるのです、と。
しかし喜んだのも束の間、船は再び暗礁に乗り上げることになる。漁業者を代表する団体が、生態系への影響調査が不十分であるとして、FDAの認可取り消しを求める訴訟を起こしたのだ。連邦地裁は認可取り消しまではしなかったが、訴訟のニュースは知れ渡った。また、従業員の内部告発により、水槽内のサーモンが「生産性重視」で非人道的密度にされていること、遺伝子操作で成長を速められて、胃が破裂するケースが頻発していること、高濃度アンモニアが付近の河川に流されていること等の内部告発文章が公開され、世界的ボイコット運動も高まった。結果的にアクアバウンティ社の株価は現在も下がり続けている。
「消費者の皮膚感覚が市場を左右する食の業界にとって、遺伝子組み換えされた食品への抵抗はまだまだ強いですね」そう語るのはニューヨーク市在住の食品流通アナリスト、ジョシュア・ベイラスである。遺伝子組み換え食品は文字通り山あり谷ありの市場、次々に困難に見舞われているという。まだ新しい技術である上に、前回書いたようなグリホサート系除草剤の裁判敗訴の衝撃が今も尾を引いている。バイエル側が判決に「納得いかない」と提訴して、ようやく2020年にEPA(米国環境保護庁)が、グリホサート系除草剤の発がん性を否定する見解を発表、政府による承認により、その後はバイエルが連続勝訴、規制していたEUも再承認の方向に向かい、形勢逆転したように見えた物の、そう簡単ではなかった。なんと、政府が安全宣言の根拠にした論文が、実は査読も公開もされていない代物だったことを突き止めた市民団体が、新たな訴訟を起こし、2022年6月に、連邦控訴裁判所からこんな判決が出された。「米国政府のグリホサート再承認は違法。安全評価をやり直すべし」つまり、グリホサート系除草剤の安全性は未だ確認されていないということなのだ。
 モンサント社を買収したバイエル社は、株主たちへの説明と、次なるイメージ戦略に頭を抱えている。食の世界では、一度ついた悪いイメージを覆すのは至難の業である。大切なのはイメージである。このモンサント社の最初の成功は、自然分解せず生き物の体内で濃縮される殺虫剤「DDT」である。その後ベトナム戦争で化学兵器として使われた「枯れ葉剤」の販売で、さらに巨額の利益を手にした。次に遺伝子組み換え種子とセット売りで世界的ヒットとなったグリホサート系除草剤が、さらに大当たりして、押しも押されもせぬ世界トップ企業となった。同社が開発し特許を持つ「遺伝子組み換え種子と除草剤のセット」は、一度使うと毎年買わなければならないシステムになっており、面白いように利益を上げる。だが、その後、遺伝子組み換え種子により、元々地域にあった在来種が駆逐されるリスクや、各地で報告される健康と環境への害、モンサントの種に「食」を支配されてしまうことへの警戒から、世界では「反モンサントデモ」が年々拡大しており、同社のイメージはドンドン悪くなっていった。そこでバイオ業界と投資家は、売るための方法論を、発想を変えて生み出していく。
 他の生物の遺伝子を外から入れて変化させる「遺伝子組み換え技術」の代わりに、狙った遺伝子を破壊する酵素を導入することで遺伝子を直接操作する「ゲノム編集技術」にシフトし始めた。まず、ゲノム編集を起こさせる人工制御酵素遺伝子<クリスパーキャス9>を、種子の細胞の中に導入する。その遺伝子が細胞の中で働き始め、細胞内の特定遺伝子を破壊するのだが、このままだと導入した遺伝子が残ってしまうので、特定遺伝子を破壊したその種子と、何もしていない種子を交配させねばならない。交配してできた種は親から半分ずつ遺伝子をもらうので、子の種子のパターンは四種類できる。1.遺伝子破壊済み+導入遺伝子、2.遺伝子破壊済み+導入遺伝子なし、3.遺伝子破壊なし+導入遺伝子残り、4.遺伝子破壊なし+導入遺伝子なし、である。このうち二番目の種子がゲノム編集済み種子となる。ゲノム編集はピンポイントで遺伝子操作をするのが特徴である。メーカー側に訴訟が相次ぎ、発がん性の有無をめぐる議論が活発になって、各国で消費者離れが進み、もはや市場は頭打ちかと思われた「遺伝子組み換え作物」のピンチを救ったのは、まさにこの「ゲノム編集」であった。遺伝子組み換え技術と違い、ゲノム編集による遺伝子破壊は自然界で起きる変位と同等だというのが、開発者側の主張する安全性の根拠になっている。
 しかし一方で、我々は人類史上まだ誰も入ったことのない領域に足を踏み入れた。ゲノム編集の主な手法である<クリスパーキャス9>を使って、ヒト胚を遺伝的に改変する実験では、狙った部位やその周辺に望ましくない大規模な変化が生じたり、染色体が損傷した事例などが報告され、安全性への懸念もまた、次々に明らかになって来ている。(CRISPR gene editing in human embryos wreaks chromosomal mayhem,Jun.25,2020.Nature)
そんな中、一足飛びにゲノム編集食品の販売を開始したのは、我が日本である。2019年6月トランプ大統領がゲノム編集食品を推進し、規制撤廃の大統領令に著名し、輸出先の貿易障壁を外す作戦に出たことは、多くの日本国民に知られていない。そこに、まるで忖度するように、日本では審議もなく性急に厚労省が、「ゲノム編集食品は品種改良と同じ」と見なし、安全審査なしの流通を許可する方針を決定、2019年10月から、国内で販売・流通の届出制度が開始された。届け出をするしないは企業任せ、「ゲノム編集」という表示義務もなしである。
2021年9月リージョナルフィッシュ社(京都大学内)が、ゲノム編集したマダイ「22世紀鯛」の流通申請を政府に提出、日本はゲノム編集魚の販売を開始した、世界で最初の国になった。

-堤未果著「ルポ食が壊れる-私たちは何を食べさせられるのか?」(文春新書)より抜粋引用-

2023年05月01日
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